今日から何回かに分けて、私の経歴をお話します。
と、言っても、たいした経歴ではありません。
大学にも行っていませんし、高校は県立でしたが、ランクから言うと最下層のレベルでした。
なので、恥ずかしくて学校名は言えません。
今考えると、もう少しがんばっておけば良かったのにと思いますが、勉強は大嫌いでしたのでそんなところにしか行けませんでした。
「平凡」です。
すでに40歳を何年か越えてしまいましたが、生涯においてそんな感じかも知れません。
「努力」して「栄光」を掴んだという記憶がありません。
大学は受験しましたが、私を入れてくれるようなところはありませんでした。
もちろん、受験勉強に一心不乱に取り組んだわけではなかったので、仕方の無い結果です。
なので、就職にも出遅れていて、高校を卒業してすぐは定職に就けず、いわゆるフリーターでした。
近所のおじいちゃんの紹介で、歯科技工士が使う電気炉の組み立をする会社の手伝いをしていましたが、おもしろくなくて1ヶ月でやめました。
何社かの会社へ就職しますが、最初の2年で5社くらい経験しています。
「ビルの防水工事の下請けの会社」
「トイレの芳香剤を飛び込みで売る会社」
「商品先物取引の会社」
「教材販売会社」
「ふとん販売会社」
など、主に外回りの営業でしたが、これも長続きせず、俺に営業は出来ないと勝手に思い込んでいました。
外回りの飛び込みのあの地味で不毛な活動が、そのうち全く出来なくなりました。
仕方なく就いたのが、窓口だけというスタイルの営業職です。
これは外回りに比べるととても「楽」です。
何しろ、お客様は勝手にやって来るので、こちらから営業に出向く必要が無いのです。
この会社で15年あまり勤めることが出来ました。
ただ、ここでもとても平凡でした。
窓口営業と言っても、成績はあるので、契約が多いほど褒められるのです。
私の成績は平凡でしたが、商売の「いろは」は、ここで学びました。
とてもいい会社で、気に入って働いていました。
給料もいいし、そんなに頑張らなくても、上司に気に入られればそこそこに出世できるシステムだったからです。
まさか、この会社をやめることになるとは、当時は「夢」にも思っていなかったです。
停年までこの会社で働いて、そこそこの退職金をもらって、悠々自適な老後を送ろうと、何となくそう思っていました。
サラリーマンの多くの人は、概ねそんな風ではないでしょうか?
サラリーマンの時から、独立を意識して、やがて起業しようと考えている人は、ごく少数です。
そんなことを意識していたら、独立後に「何」のたしにもならない窓口営業の会社になど就職するわけがないのです。
独立を意識していたとしたら、独立後に使える資格や、人脈を得られるような就職先を考えると思います。
建築関係なら、建築士とか、営業ノウハウを勉強して独立するとか、
会計事務所なら、会計を勉強して、税理士や会計士として独立するとか、
飲食業なら、厨房でこき使われても、いつか独立してここで学んだことを自分の店に活かすんだとか、
今からすることが無駄にならないように、将来に繋がる、職業や会社を意図して選ぶと思います。
私は、両親も親戚も、サラリーマンしかいなかったので、自分も生涯サラリーマンとして生きていくものだと考えていました。
多くの人がそのように生きていて、それが当たり前だと考えていたのです。
こんなに給料が安定してもらえて、生活も保証されていて、しかも休日はたっぷり、有給休暇も毎年余っちゃうくらいの夢のような生活を手放すことは考えられないと、思っていました。
まさか、自身で商売しようなどと、考えたことなどなかったのです。
そんなことは、一部の特別な人間がやることだと、考えて疑わなかったです。
なので、独立してその後に「役に立つ」ような資格や、ノウハウや、人脈や、顧客など、一切意識することなく、その会社に忠誠心をもって働いていたのです。
高卒で、中途採用で、低いところで平凡な私を、よく雇ってくれたものだと、会社に感謝する毎日でした。
ところがある日、転機が訪れます。
そんな会社でもキャリアを重ねると、役職をもらったり、給料が上がったりもちろんあるのです。
先輩を追い抜いたり、後輩に追い抜かれたり、も当然ながら発生します。
そうしたなかで、仕事をがんばったり、たまにいい成績を取れたりします。
そうすると、報酬や処遇に対して不満が出てきたりするのです。
俺は、あいつより仕事は出来るぞとか、
他の会社へ行ったら、もっともらえるんじゃないかと、
考えたり、仲間内で話したり、するようになります。
俺はもっと出来る。
一人でも、やれるんだ。
15年目のその日、私は35歳になっていて、今思うととても恐ろしいカン違いをしてしまっていました。今、考えると・・・・、ですが。
(つづく)
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